エコノミークラス症候群と呼ばれている病態について

(財)航空医学研究センター
研究指導部長 三浦靖彦

 最近、メディアを中心に「エコノミークラス症候群」という活字を目にすることも多いと思います。読者であるパイロットの方々も、ご自分たちのフィールドで起こる、この奇病(?)について、いろいろと御心配のことと思います。今回は、誌面を借りて、この病態についていろいろと説明してみることといたします。

「エコノミークラス症候群」の本態について
 体内の血液の流れを、心臓を中心に考えてみましょう。心臓から駆出された血液(動脈血)は、心臓のポンプ力によって体の隅々まで運ばれます。その後、静脈系に入った血液が心臓に戻ってくるのですが、この時の血液を流す力は、重力や、呼吸による胸郭内の陰圧、そして、静脈周囲の筋肉が収縮するときに一緒に血管が収縮する現象などが利用されています。
 長時間座ったままの姿勢を保っていると、下肢の静脈内に血液が貯留してしまいます。これは、下肢の静脈周囲の筋肉によるポンプ作用が無くなることが主な原因と考えられています。静脈内に貯留した血液から、血管周囲に水分が漏出してしまうために、足にむくみ(浮腫)が出ると共に、静脈内に貯留していた血液は、時間と共に濃くなって行き、固まりやすくなってきます。血液の固まりのことを血栓と言いますが、血液が下肢の静脈の中で固まってしまう病気を、下肢の深部静脈血栓症といいます。これだけでも、下肢の痛み、腫れ等を起しますが、更に困ることは、長時間座位の後に歩行を開始すると、この血栓が遊離して(剥がれて)、血管の中を流れ出し、心臓を通って、肺動脈の中に詰まり、「肺動脈血栓塞栓症(単に肺血栓症と呼ぶ場合が多い)」という病態を起すことがあることです。肺はガス交換(血液中に酸素を取り入れて、二酸化炭素を放出する)を行う場所であり、肺動脈が詰まってしまうということは、ガス交換をする場所へ血液を送ることができなくなることを意味します。したがって、体内に酸素を取り入れることが出来なくなり、呼吸困難・胸痛・失神を起こし、最悪の場合死亡することもある恐ろしい病態です。
 エコノミークラス症候群とは、その病名自体、医学会では未だ認知されていないばかりでなく、エコノミークラス症候群と表現するときに、上記の深部静脈血栓症を指す人もいれば、肺血栓症を指す人もおり、はっきりとした概念がまだ確立されていない病名といえます。とりあえず、本論文の中では、「エコノミークラス症候群」と、表現することにいたします。

「エコノミークラス症候群」の歴史
 長時間の座位により、肺血栓症が引き起こされる病態について歴史的にみると、1940年にSimpson1)が、第二次世界大戦のロンドン空襲時に、防空壕内に非難していた住民が肺血栓塞栓症で多数死亡したという報告までさかのぼることができます。
 航空機利用による同病態を最初に報告したのは1954年のHomans2)で、長時間の航空機利用により下肢の深部静脈血栓症を起こした患者を報告しています。また、1968年には、Beiton3)が、長時間航空機利用により発生した深部静脈血栓が、本来成人であれば塞がれているはずの卵円孔(心臓の中にある孔)を通過し、脳血栓を発症して死亡したと報告しています。Symington3) は1977年に航空機利用後に発症した3症例を報告し、その中で初めて「エコノミークラス症候群」という名称を使用しました。しかし、Symington先生は、同じ論文の中で自動車利用後に発症した3症例、船舶利用後の1例、列車利用後の1例も報告しており、なぜ航空機利用後の病態だけを特別に「エコノミークラス症候群」と呼んだのかは、今となっては知る術もありません。 
このように、この病態は決して新しいものではないのですが、非常に珍しい病態と考えられていました。1988年に有名医学雑誌Lancetに二度に渡り掲載されたことが、広く医師が知るきっかけになったのではないかと思われます4,5)。

わが国における現況について
 「エコノミークラス症候群」が、わが国の医学雑誌で初めて紹介されたのは、欧米にかなり遅れを取り、1997年のことでした6)。そして、2000年に入ってから、4つの学会報告がありました7-10)。その中の一つは14症例の特徴をまとめた形で、すでに医学論文になっています7)。この論文中で、成田赤十字病院の森尾医師の報告によると、平均11.3時間と長距離路線の搭乗で起こっていること、14例中、女性は12例と圧倒的に多かったこと、平均年齢は59.6歳と、比較的高齢者に多いこと、また、ほとんどの人が飛行中0-1回しか席を立っていないこと、などが特徴として挙げられています。
 本年3月の段階で、わが国において同病態について医学会で報告されているのは36例であり、死亡は2例で、他は全例後遺症も残さずに軽快していることが報告されています。
 昨年、メディアを通じて大ブレイクしたのは、シドニーオリンピック観戦を終えて、英国に帰国した、若年女性が、この病態で死亡したことが大きく報じられたことに端を発していると思われます。

今後、「エコノミークラス症候群」は増加するのでしょうか?
 前述のように、日本においては、この病態の認知が遅かったように思われます。その理由の一つとして、日本人は欧米人に比較して肺血栓塞栓症を起こしにくいからではないかといわれています。いくつかの報告をまとめると、日本人の場合、肺血栓症を起こす確率は人口100万人に対して年間28人とされています。また、厚生省によると、肺塞栓による死亡はこの10年間に2.8倍に増加しているといわれています。一方、米国では人口100万対500人と報告されています。ただし、注目しなくてはいけないのは、欧米では、生活習慣病、いわゆる高脂血症、糖尿病、高血圧症を減らす努力、つまり、予防医学が功を奏し始めた1975年ごろから、生活習慣病が減少し、二次的に血栓症も減少してきていることが報告されています。残念ながら、日本では高脂血症、糖尿病等の生活習慣病は、未だ増加しており、それと共に肺血栓症もまだ増加を続けるものと予想されています。我が国における肺血栓症の増加の原因としては、診断法の進歩や、医師の間での認知度が上がったことなども影響していると考えられています。
 また、「エコノミークラス症候群」の今後の動態を考えるとき、航空機利用者の爆発的増加も、見逃すことは出来ません。わが国に発着した国際線旅客数は1975年には 7,940千人であったものが、1986:年には18,650千人に、1996年には46,510千人に増加していることが知られています。したがって、危険因子を持つ人口が増え、かつ、航空機を利用する人が増えれば結果的に航空機利用後に血栓症を起こす人が増える可能性が高くなりますので、有効な予防策が望まれます。

「エコノミークラス症候群」にかかりやすい体質はありますか?
 Virchowという医師が、1868年に血栓症を起こしやすい因子、つまり、危険因子を3因子に大別しています11)。それぞれについて具体的な状態を解説しながら示します。
@ 血液の凝固性(固まりやすさ)の亢進
  妊娠・出産直後、経口避妊薬内服中、先天性凝固異常症、悪性疾患(癌など)
A 血液の流れの停滞
  長時間座位、寝たきりの状態、下肢の静脈瘤
B 血管壁の障害
  動脈硬化症(糖尿病、高脂血症、高血圧症などによる)、手術・骨折後、
したがって、「エコノミークラス症候群」を起こしやすい体質というものも、上記のものと考えて差し支えないでしょう。

「エコノミークラス症候群」は、その名の通り、航空機内で起こりやすいのでしょうか?
 この病態が、長時間座位を取っていれば、どんな状態でも起こるものであることは、すでにいくつかの報告があります。しかし、他の状態、他の乗り物と比較して、航空機に特定して起こり易い病気なのかについての医学的確証は得られていません。
 しかし、航空機内は以下の点で通常と異なる環境であることを忘れてはいけません。
  低圧・低酸素環境であること
  低湿度環境であること
  長時間に渡り、座位でいることが強制される環境であること
  座位の姿勢のままで眠ることの多い環境であること
 これらの環境下で、果たして血栓症が起こりやすいのか否かは未だ医学的に立証されていません。これは、今後の医学界の宿題にすることとして、利用者側としては、航空機内で起き易いか否かを問うよりも、確率は低くとも実際に起こりうる病気であり、かつ、有効な予防法もある病気であることを考えると、とりあえず、予防法を実践しておくべきではないかと考えます。

「エコノミークラス症候群」は、どのようにすれば予防できるのでしょうか?
 上記の、危険因子を逆に考えれば、それが予防につながるわけですが、特に簡単に行える予防法を列挙してみます。

深部静脈血栓症(エコノミークラス症候群)の予防法
 1.適切に水分摂取をする
人間に必要な水分量は、体重1Kgあたり1時間に1mlといわれています(50Kgの人なら、一時間あたり50ml)。航空機内は乾燥していることを考えると、この2倍以上の量は飲んだ方がよいと思われます。
 2.飲酒を避ける
アルコールには利尿作用があるといわれています。したがって、水分補給にはならないどころか、かえって体内の水分を奪ってしまうことも考えられます。
3. トイレまで頻回に歩行する
近年、タービュランス(乱気流)による負傷事故も問題視されているため、飛行中に機内を歩き回ることは、お勧めできませんので、以下の運動を着席で(シートベルトも締めた上で)行うことの方がお勧めです。
 4.足の位置を頻回に変えたり、ストレッチ運動または下肢のマッサージを行う
足を動かすことにより、筋肉のポンプ作用を起動させるわけです。これができないときは、自分で足をマッサージして、ポンプの代わりをします。
 5.きつめの衣服やガードル等の着用を避け、ゆったりした服装を心がける
足の血液の流れをじゃましないように心がけましょう。
 昨年末より、国内航空会社を含む数社が、機内における注意点として、発券時のパンフレット配布、機内ビデオ上映、ホームページでの呼びかけ等の対策を開始していますので、それらも参考になると思います。また、近年、各航空会社には健康相談窓口というものも設置されてきていますので、危険因子をたくさんお持ちの方で、長時間の航空機利用を考えている方などは、一度ご相談なさってみると、個人に合った有効な対策を教えてもらえると思います。

 読者であるパイロットの方々も、ご自分たちのフィールドで起こる、この「エコノミークラス症候群」といわれる病態について、いろいろと御心配であったことと思いますが、今回の説明でだいぶお判りいただけたのではないでしょうか?
 現時点までにパイロットの方が、いわゆるエコノミークラス症候群を発症したという報告は医学界においてはありません。同様に、客室乗務員で発症した報告も、現時点までにはありません。客室乗務員は、機内を忙しく歩き回っているため起こさないであろうことは予想できますが、パイロットの方たちの下肢の運動量を考えてみると、せいぜいラダーを踏むことくらいですので、さほど多くないと思われます。その見地からは、乗客に予防法を知らせるだけでなく、ご自分自身も、予防を実践しておいて損はないと思われます。
参考文献
1) Simpson K: Shelter deaths from pulmonary embolism.  Lancet U, 744, 1940,
2) Homans J: Thrombosis of the deep leg veins due to prolonged sitting. New Engl J Med 1954; 250: 148-149.
3) Beighton PH, Richards PR: Cardiovascular Disease in Air Travellers. Brit. Heart J 30, 367-372, 1968
4) SymingtonIS, StackBHR: Pulmonary Thromboembolism after Travel. British Journal of Chest, 71, 138-140, 1977
5) Cruickshank JM, Gorlin R, Jennett B: Air travel and thromboembolic episodes: the economy class syndrome. Lancet Augst 27, 497-498, 1988
6) Voorhoeve R, Bruyninckx CMA: Economy Class Syndrome. Lancet Nov.5, 1077, 1988
7) 山下美代子、森豊、島田孝夫、川上憲司: Economy Class Syndromeとして発症した肺塞栓症の一例 臨床核医学 29,105-107, 1996
8) 森尾比呂志、藤森義治、寺沢公仁子、他:航空機による旅行中に発症した肺塞栓症の14例 エコノミークラス症候群   呼吸と循環, 48, 411-415, 2000
9) 田中啓治、木村裕子、松田裕之、他: いわゆる"economy class syndrome"の病態について  日本内科学会雑誌 89,127, 2000
10) 桑野稔啓、小池薫、甲斐田博、他: 航空機利用後に肺塞栓症を発症した3症例  日本救急医学会雑誌 11, 521, 2000
11) 畑典武、今泉孝敬、田中啓治、他: economy class syndromeの集中治療と長期予後  日本集中治療医学会雑誌 8, 144, 2001
12) Virchow R.: Gesammelte abhandlungen zur wissenschaftlischen. Medicine. Frankfurt, germany: Meidinger, 1856; 227