航空身体検査のグローバル化を考える

(財)航空医学研究センター
所長 津久井一平

はじめに
 わが国の航空身体検査制度が発足して約半世紀、その間4回の基準改訂が行われて今日に至っていることは皆様よくご存知のことと思います。21世紀を目前に控えて、目覚しい技術革新を背景にあらゆる分野のグローバル化が加速されています。例えば企業における国際標準化機構(ISO)の承認申請のように、品質保証や環境保全に止まらず、その波は労働安全衛生の分野にまで及ぼうとしているのです。
 このような時代的要請を受けて当航空医学研究センターでは、運輸省の指導により1998年から1999年に欧米の航空身体検査制度を調査1)2)致しました。
そこで本稿では航空身体検査学という紛れもない航空医学の一分野が、この国際化のなかで実学としてどう航空の安全に貢献しているのか、またしなければいけないのかを考えてみたいと思います。

制度としての航空身体検査
 航空従事者に必要な免許のうち、医学的要件に拘わるわが国の基準やマニュアルは、国際民間航空機関(ICAO)の制定した国際民間航空条約(ICAO条約)の第1付属書第6章3)4)(1948年 現第8版)に基づいています。日本の航空身体検査基準が誕生したのは、ICAOに加盟した前年の1952年です。その後1970年に第2回の改正が行われ、現在のような制度に改められ、航空身体検査証明審査会(審査会)が発足しました。さらに羽田沖事故後、航空審議会諮問第19号の答申が出てからは定期的な見直しがなされています。
 さてICAO条約の第1付属書には資格を必要とする航空従事者の免許について、"標準と勧告方式(standards and Recommended Practices−SARPs)"という表現があり、遵守すべき(標準)、または遵守するよう努力すべき(勧告方式)医学上の条件が記載されています。この条約の締約国であるわが国として何よりも重要なのは、欧米各国の基準・マニュアルをただ模するのではなく、常に原典であるこの付属書に照らしてみることです。その際留意すべき2つの点があると考えます。
 第一は、付属書第6章の冒頭にも示されているとおり、ICAOの基準には全ての医学的条件が網羅されているわけではありません。その意味で世界に共通する最低標準を表わし原則を定めたものと言えます。従って各加盟国は付属書の主旨に沿った範囲で各国の実情に合う基準・マニュアルを持つことになります。本邦における生きた基準・マニュアルは、最小限の制限であることを守りつつ、わが国の制度、文化、習慣を十分反映し、国民的に納得のいくものであるべきです。
 第二は相違点の通告(Notification of differences)といわれる制度です。自国の判断や方式が国際標準と異なる場合は、加盟国の義務としてこれをICAOおよび関係国に通報しなければならないとされています。
 この一見相反するような2つの留意点は、国際標準とは何か、自国の安全基準を世界に発信するとは何かを問うことにおいてむしろ共通し、極めて重要であると思われます。

欧米との健康観の相違と航空身体検査
 最近の新聞報道によりますと、ある生命保険会社の集計では、健康診断(健診)を受けていない人は受けている人に比べて病死率が3−4割高いとのことです。日本における健診は、労働安全衛生法(安衛法)のような法律による制度化を含めて、官民こぞってのいわば健康文化になっている感があります。欧米諸国に目を転じますと、予防医学的方法論として日本で行われているような健診を採用している国は、フランスしかありません。それも、まじめな日本人が受けたら怒り出しそうな簡単な内容です。アメリカでは、1922年に定期的な健診が初めて提唱されていますが、その約60年後には、アメリカ医師会の公式見解によって年1回一律に行なう健診の疾病予防効果が否定されました。さらにアメリカ保健省のtask force5)として、1989年までに健康増進や疾病予防の方法論が検討され、病気診断に用いられる多くの臨床検査には予防効果の実績がなく、むしろ禁煙や適度な運動を奨励し、アルコールや薬物の乱用をなくすよう個人の健康行動の変容を促すことが有用と結論付けられました。
 ところで、日本には1951年に制定された結核予防法という法律があります。結核の蔓延を防ぐために一胸のレントゲン(胸]−ray)を撮るよう求めています。安衛法に基づいて行なう職場の健診も、胸X−rayについてはこの結核予防法を兼ねて行われているわけで省略は許されていません。一方、欧米諸国では予防医学的措置としてレントゲン検査の意義が評価されているのは乳がん検査のみと言ってよいでしょう。ましてそれが集団的に行われるとなると、目標となる疾病(肺結核?肺がん?)の発見率の少なさと放射線被爆の問題、プライバシーの問題が加味されて採用されることはありません。採血検査も同様です。日本の健診の方法論としては、多くの場合、血液検査を一次検査に含めて行なっているのではないでしょうか。一方アメリカの例のように、欧米では血液検査は一般人口を対象とした予防医学的なスクリーニング検査として行なっていません。胸X−rayや採血検査は航空身体検査においても、一部の例外(初回受検時や加齢後)を除いて二次検査、つまり何か問題があった時に精査する検査手段として位置付けられているのです。

航空身体検査の精度管理
 これまで、欧米との健康文化の違いを背景にした検査項目の違いをお示ししましたが、航空身体検査はこれらの単なる寄せ集めではありません。航空身体検査の目的は、安全な航空機乗務を確保するために乗員の心身の能力をチェックし、突然に操縦不能に陥る(sudden Incapacitatlon6))ことのないよう、疾患を除外することにあります。こうした航空の安全のための乗員の役割から考えますと、航空身体検査の判断、とりわけ一次検査が不適合であっても当該者の技能や経験を考慮した上で再審査7)(accredited medical conclusion−医学確定診断)をする際には、運航の実態を知り、ヒューマン・マシンシステムの安全管理の考え方を導入する必要を感じます。飛行機は原子力プラントより明確な一つのシステムであり、航空界のヒューマン・ファクターの解析手法が示すとおり、1人の乗員のみで大型飛行機が旅客や貨物を運べるわけではないのです。そのための2人乗務でありfail−Safeなのです。システムの精緻さは、最も誤差の大きい部分で評価されます。いかに一部分の検査に精度を高める努力を払っても、もしそのシステムの管理限界を考えるなら、むしろ無駄な努力でさえあるはずです。いわゆるthe 1% rule8)(2人乗務における心血管障害によるincapacitationの発生率は、1年間で1%)には、いろいろな前提条件があり問題も感じますが、欧米とくにJAR(ヨーロッパ共同体の統合航空基準)はマニュアルの前段にこれを謳い、管理限界の指標として判断根拠の背景にしています。

指定医と申請者(乗員)の信頼関係
 航空身体検査の方法や理論が国際的なルールのなかで、わが国の独自性を保ちながら整理されてきますと、最後に問題になるのは当事者、つまり指定航空身体検査医と乗員の関係です。JAAのマニュアルには、いみじくも指定医の心得として「前回の検査後には変化はありませんという乗員の申し立ては病歴聴取の終了ではなく、その出発点にすぎない」とあります。また「乗員は患者ではなく(中略)、乗員の信頼がなくては成果をほとんど得られない」とも記されています。日頃から航空全般についての知識の修得を怠りなくした上で、プロとしての乗員に敬意を払いながらゆっくり時間をかけて診察を行なうことの大切さを説くJAAの姿勢を知ると、とかく検査項目の多くなりがちな日本の健診を思い出してしまいます。航空身体検査にあって何よりも重要なのは、当事者間の信頼関係に他なりません。


まとめ
 これから21世紀に向けて、わが国の航空身体検査基準・マニュアルの改訂作業が進んでいるところです。具体的には、指定医講習会のあり方も変わって行くと聞きます。200人を超える全国の指定医が、航空医学という土俵の上に集い、航空身体検査学に拘わる情報を共有化し、航空機乗務の実態をより一層学ぼうとすることによって指定医としてのモラルアップを図れば、日本の航空身体検査制度が米、欧に並ぶ発信地となる日も近いと信じます。


参考文献
1)航空身体検査証明制度の運用検討委員会(編):航空身体検査証明制度の運用に関する実態調査研究報告書。財団法人航空医学研究センター,東京,pp.11−98,1999
2)財団法人航空医学研究センター(訳):JAR−FCL3(Medical)航空機乗員の航空医学的要件1997年2月28日発行版,財団法人航空医学研究センター,東京,Manual pp.2−15,1999
3)Personnel licensing annex 1 to the convention on international civil aviation.8th ed.July1988,International Civil Aviation Organization,Montreal,Quebec,1989
4)上田泰(監修):臨床航空医学.航空医学研究センター,鳳鳴堂書店,東京,pp45−52,pp57−58,1995
5)福井次矢,箕輪良行(訳):予防医療実践ガイドライン 米国予防医療研究班報告.医学書院,東京,pp.3−54,1993
6)中村彰男:パイロットの医学適性と健康管理・石引久彌(編):Biomedical Perspectives,特集 航空医学.メディカルレビュー社,東京,pp.211−218,1999
7)岸本道太:日本におけるウェーバー制度.PILOT5:15−20,1999
8)Ernsting J,Nicholson AN,Rainford DV:Aviation Medicine.3rd ed.Butterworth−Heineman Ltd.Oxford,London,pp.217−231,1999